25年を経て記録する、父と娘の戦後50年パプアニューギニア旅行

今日は75回目の終戦記念日。そんな日があることさえ知らない人が多くなっている気がするけど…私は毎年思い出します。理由?それは父が戦争経験者だから。父は元軍人で、パプアニューギニアで終戦を迎えました。

三年前の今日、私はこんなツイートをしています。

私自身は戦後の生まれ。太平洋戦争は、新聞やテレビから知る「昔あったこと」には違いありません。ただそこに「父が実際に経験したこと」がプラスされます。

私が子供のころ、父から戦争体験を聞かせてもらうことは稀でした。それでも太平洋戦争は「遠い遠い昔の人のこと」ではなく、「一番身近な人が経験していること」という認識が、私の中にクッキリと存在しています。

今週、テレビの画面に「戦後75年の節目」という文字を見たとき、ふと25年前の旅を思い出しました。父と一緒に出かけたパプアニューギニア慰霊の旅です。父が元気でいてくれる今、あらためてあの旅を振り返ってみようかな。思い出して、自分の中に沸き上がるものを記録しようかな。

「過去に起きた事柄や感情を、文字化するのっていいよ」

友達からオススメされたばかりだし…どんな内容になるのか自分でも分からない「言葉の旅」に出てみることにします。良かったら付き合って下さい。

パプアニューギニアってどこ?

75年前に父が終戦を迎えた場所、パプアニューギニア。地球儀のどの辺りにあるのか、知らない人の方が多いかも…ということで地図を広げます。

オーストラリア大陸の北に位置する大きな島。その東半分がパプアニューギニアです。

父は昭和18年(1943年)3月から昭和20年(1945年)8月の終戦までの約2年半、この地で戦い、生還しました。

今ではスキューバダイビングをする人憧れの場所、楽園のような場所パプアニューギニアで、13万もの人が戦死したのだそうです。

縁ある場所への旅は、精神ルーツを知る旅

25年前、旅は突然決まりました。新聞に載ったパプアニューギニア慰霊ツアーの記事を父が見つけて「50年間、自分の胸にしまっておいたものが一気に噴き出したような衝動にかられた」のが3月下旬。父はすぐにツアーの資料を取り寄せて、現地で開催される慰霊祭への参加を決定。それを聞いた東京の姉が、父に同行すると宣言。さらにそれを聞いた私が「行きたい!」と挙手。ツアーの申込締切ギリギリの4月中旬に旅行代金を振り込んで、父と娘の旅がアレヨアレヨと決まったのです。

私が「行きたい!」と手を挙げた一番の理由。それは「父の精神的なルーツを知りたい」でした。

父がパプアニューギニアで過ごしたのは、20歳から22歳の時。その年齢の心と体に刻まれた強烈な体験は、父の精神的な土台になっているに違いない。父と同じものを見て、同じ時間を過ごし、同じ場所に立って言葉を交わすことで、もっと深く父を知りたい。そう思ったのです。

そんな思いを胸に旅を決めたものの、当時の私は仕事に追われている人。スマホも無く、海外から日本に連絡する手段も限られている中で、10日以上会社を留守にするって…

さて、どうしよう。まぁ、何とかなるさ!と言いつつも、留守対策は結構なボリューム。出発前日まで続いた作業は、毎日深夜までかかりました。

おかげで飛行機乗換の待合せ時間、私は常に爆睡。写真に証拠が残ってました(笑)

25年前、日本からパプアニューギニアへの直行便はありませんでした。成田空港から7時間10分かけてオーストラリアのケアンズ空港へ飛行。やっと着いたケアンズ空港からは、一歩も外に出られない状態で5時間半待ち合わせ。そして再び1時間25分飛行機に乗って、パプアニューギニアの首都ポートモレスビーに入るというルートでした。

↓ 旅行の経路図

「どの様にして日本から5,000kmも離れたこの地へ補給その他の後方支援をやろうとしたのか、まさに狂気の沙汰である」

この旅を終えた後に父が書いた文章の中に、この一文がありました。50年前、胸まで水に浸かりながら暗い密林を行軍した場所。その場所を飛行機で一気に通り過ぎる間に、どれほど多くの想いや映像が脳裏に蘇っていたのか。飛行機の小さな窓から食い入るように眼下の景色を眺める父の姿は、私の記憶に強く残りました。

死線を超えて到着した地、マダン

首都ポートモレスビーで市内観光をした翌日は、飛行機を乗り継いで「マダン」へ行きました。昭和18年3月、パプアニューギニアに上陸以来、「日夜を分かたぬ死闘が続いていた中、幸運にも死線を超えてマダンに到着し、9ケ月ぶりに連隊に復帰できたときの感激は終生忘れることが出来ない」と、父が手記に書いた地、マダンです。

当時、連隊の宿営地だった通称「中川クリーク」とおぼしき場所には、船の残骸が水の中に残っていました。

「マダン湾クルージング」で一帯を観光したのですが、ここで父がポツリ。

「昼間はこんな眺めだったんだなぁ」

75年前は昼間の景色を見ることなど出来なかったのです。当時は敵が圧倒的に航空優勢な状況で、父の連隊は夜間の隠密行動が主。父にとっては思い出深い場所マダンですが、目の前にある景色の中に、当時を重ねられるものはごく僅かだったようです。

マダンでは、旅の中での大きなイベントの一つ「日本・パプアニューギニア友好親善の夕べ」があり、そこに父が参加しました。

その場で撮影してもらったのがこの一枚。向かって右側の方が、パプアニューギニアの初代首相「国父」と呼ばれるサー・マイケル・ソマレ卿です。

ソマレ卿にも縁のある場所、カウプ。4日後、そのカウプを訪問出来たのが旅の肝になりました。

懐かしの地、カウプ

ソマレ卿が子供時代を過ごした村、カウプ。その地はかつて、父の所属する連隊が自活していた場所です。正しい表現かどうかは分かりませんが、カウプで生活させてもらっているお礼にと、連隊に所属する柴田幸雄中尉が寺子屋式の学校を作って、10歳前後のカウプの子供たちに算数や歌を教えていたのだそうです。

その教え子の一人がソマレ卿です。

カウプは、父が多くの時間を過ごした是非とも訪れたい場所。車を個人的にチャーターして行ってみることにしました。とは言うものの、果たして村にたどり着けるのか、そもそもカウプまで車が通れる道があるのか。まったく分かりません。

↓ 今ならGoogle Mapに出てきます

チャーターした車はトヨタの4WDトラックなので、座席に座れるのは運転手のチャーリーさんと父の二人です。私と姉は、トラックの荷台に籐椅子をロープで括り付けた簡易シートを設えてもらって座りました。

時速70kmでアスファルト道を飛ばし、時速50kmで砂利道を走るトラックの荷台の上。姉も私も、籐椅子の肘を両手で固く握りしめました。その手を少しでも緩めたら荷台から振り落とされる。恐怖心もある一方、一生に一度の経験にワクワクしながら、土ぼこりにまみれていました。

2時間以上走って、密林の中の浅瀬を数百メートル遡ったら、突然目の前がパッと開けました。まばゆいばかりの海と砂浜です。

父は車から飛び降りて左右を見渡しますが、目指すカウプがどの方向にあるのか分からないと言います。その時でした。沖合にいた一艘のカヌーが近寄ってきて、乗っていた一人の青年が降りてきたのです。

青年にカウプはどの方向かと尋ねると、遥か右のほうを指しながら自分はカウプの住民だと言います。青年に私たちのことを説明すると何たる奇遇!この青年、父が最も親しかったカウプ村のナンバーワン酋長、アンドワリーの孫だったのです!

青年は、これから先は車では行けない、自分のカヌーで送ってやってもよいと言ってくれました。「彼らの純朴さと親切は昔と少しも変っていない」後に父は手記にこう書き残しています。

↓ 船外機を操縦する青年

↓ アウトリガー付きカヌーに乗って15分

↓ カウプだ!!

↓ 村の人たちが親しげに寄ってきてくれました

↓ 数年前に収骨された場所で焼香

良き思い出は消えない

念願のカウプに来ることが出来て感激に浸っていましたが、暗くなる前にホテルに戻らなければ危険が伴います。再び青年のカヌーに乗せてもらって、トラックのある場所まで送ってもらいました。カヌーから降りるときに、父が青年に手持ちのお金を全部謝礼として渡したら「椰子の実をごちそうしたいから待っていて欲しい」とのこと。

そのまま椰子の木にスルスルと登って実を地上に落とすと、下で待っている仲間が手際よく皮をむいて飲み口を付けてくれました。生まれて初めて飲んだ椰子の水は、ほんのり甘かったです。

その場所で持ってきた弁当を食べることになり、カウプの人たちにも仲間に入ってもらいました。

たまたま近くに60歳前後とおぼしき男女がいました。話しかけると、この二人も前述の柴田中尉のことをよく覚えています。柴田中尉の奥様の名前「カヨさん」、「ビッグキャプテン オダ」(連隊長 織田大佐のこと)「ヨコヤマ」といった名前が、口をついで出てきました。

その記憶力に感心した父は、たった一つ覚えていたカウプ地方の歌を披露。

「プラリウェイ プラリウェイ
 クンゲレー ゲレシー」

父は、この歌の意味を全く分からないのだそうです。父が歌うと周りにいたカウプの人たちも大声で唱和してくれました。

父が歌い終わると、今度は上の写真の左端にいる女性が歌い出しました。

「夢もぬれましょ 汐風夜風
 船頭可愛いや あぁ~船頭可愛いや
 波まくら~」

歌詞もメロディーも完璧。幼少期の教育、良き思い出は、何年経っても消えることがないんですね。波音しか聞こえない、遠い異国の静かな木陰で聞く古い日本の歌謡曲は、穏やかに、そして強く、私の心に響きました。

旅を思い出して想うこと

25年前の旅の、前も後も最中も、父は誰かを悪く言ったり批判することはありませんでした。私から聞けば、父が知る範囲での事実を語ってくれるだけです。

感情を載せて口にしたくないからなのか、過去の事実を踏まえ自分に出来ることを淡々とやろうという想いがあるからなのか。真意のほどは分かりません。

ただ、その後の父の暮らしぶりというか生き方を見ていると、批判するんじゃなく、常にこの先どうするのかを考えて動きたい人なんだと思います。

その父のスタイルを私は受け継ぎたい。今あの旅を振り返って、このブログを書いて感じています。

旅って、綺麗なもの珍しいもの、美味しいものを得るためだけに行くんじゃなくて、何かを感じに行くものですね。

次回、帰省の折には、父にこのブログを読んでもらおう!25年前はプールで泳いだよねって言いながら。

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浅野葉子
1959年千葉県生れ札幌育ち。学校卒業後に事務員をするつもりで就職した会社でシステムエンジニア部門へ配属される。4年間のハードワークで精神と体を鍛えられつつ仕事の楽しさを知る。1985年結婚と同時に来た釧路で夫とアシストを開業。以来 『オフィスの仕事をもっと楽しく便利にするには?』 に知恵を絞る。 2014年アシスト内に 『葉子の部屋』 を、2015年アシスト2階に『つながり空間まめ』をオープン。テーブルを囲んでのお喋りから多くを学んだ子供時代の経験を仕事にも生かしたいと試行中。 絵を描くこと、モノを作ること、自然の中に体を放り込むことが好き。

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